ホテルの朝食バイキングを頂いている。
ほぼ食べ終わり、ミルク8、コーヒー2にブレンドした
ミルクコーヒーを飲んでいる。
左手には、新聞が開かれている。
っと・・・
『終わりましたモノ、お片付けいたしましょうか?』
従業員の女性が声をかけてくる。
彼女は、良かれと思って声をかけている。
食後のコーヒーを飲むのに邪魔なモノを、
どけてくれようとしているのだ。
しばし、フリーズした私。
せっかくの声掛けなのに、
「いえ、そのままで」
そのまま、置いておいてくれと、唇を突き出している。
いやな野郎だ。
勿論、私も、食後の余韻を楽しみたい。
しかしながら、その
余韻には、<残骸>が必要なのだ。
ガツガツと喰らった、その印象が残っている残骸を、
目の隅にしながら、新聞を熟読する。
フォークで取りきれなかったスクランブルエッグの小片や、
レタスのかけらを思いやりながら、
爪楊枝のシーハー音を立てている。
テーブル上にある汚れた皿たちは、
満腹、満足感をそよ風のごとくあおってくれる、小道具なのだ。
ゆえに、ただの邪魔モノとして、撤去されるのは、困る。
ご理解できない方は、次の例でご考察いただきたい。
カニを食うレストランにいるとしよう。
アナタは、カニの足を次から次と、バリバリ割って食べている。
カニは食べにくい。
それなりに時間がかかる。
もし、この時、テーブルの横に係りの者がいて、
食べ終わった残骸を片っ端から片付けられたら、
どうだろうか?
もし、その人が居なければ、
皿の上にうず高く積まれるカニの足や甲羅が残る筈だ。
食べ終わった時、その残骸を眺め、
「おお~よく食べたなあ~」
いぎたなさも含まれたそれなりの感慨が生まれる。
つまり、残骸がなければ、
何を頼りに、満腹感の余韻に浸ればいいのか・・
新聞の文字が、にじんでくるのである。