「動物として、何かあるんじゃナ」
草むしりをしていたら、家の前を通るオジサンが喋っている。
散歩の途中、ご夫婦らしき二人が、立ち止まって、
動物についての会話をしている。
「動物として、何かあるんじゃナ」
再び、このセリフが吐かれた。
しばらく聞いていると、5分ほどの間に、
10回以上、このセリフがオジサンの口から漏れた。
オバサンの方は、様々な話をしているのだが、
オジサンはと云えば、このセリフ一辺倒だ。
「動物として、何かあるんじゃナ」
『何があるか』は、語っていない。
答えは、言わない作戦なのか、それとも、ただの口癖なのか?
答えを推測すると、
《動物には、動物にしか分からない秘められた能力がある》
こう、言いたかったのではないだろうか?
しかし、オジサンは、セリフを発展させない。
がんとして、同じ言葉を吐き続ける。
ふと・・ここで、考えた。
学者の研究とは、真理の追求である。
一つの事を、徹底的に追求する。
「何かあるんじゃナ」
では終わらせない。
一つが解決しなければ、次に進めない仕組みになっている。
ところが、このオジサンは、オバサンの話にすべて、
同じセリフで応えている。
ひとつひとつを追求しない。
ぼんやりしたところで、置いておくのだ。
沢山、置いておくのである。
たくさんたくさん集まったところで、
一気に、解決しようという算段と思える。
木が森になり、山になったところで、
全体として、真実を追究しようという心積もりだろう。
ってぇことはだヨ・・
オバサンが、花の話を始めたら、こう言うのだろうか?
「植物として、何かあるんじゃナ」