天草 大江天主堂
<隠れキリシタン>
熊本県の天草地方を旅すると、
江戸時代に隠れキリシタンの遺した遺産を数多く見かける。
幕府に見つからない様に、
村中で、秘密を守り抜いた辛い歴史があった。
村民が、もれなくキリスト教を信奉していたのだ。
家の中には、一見、仏教徒に見える様に、
仏壇や、神棚を飾っていたものの、
隠し扉の向こうには、十字架が掛けられてあったりする。
生活品の随所に、マリア様や、十字が隠されている。
幕府の役人が現れると、皆が団結して、隠しにあたった。
そう、確かに江戸時代、この村では、
全員がキリスト教信者であった。
あった・・と断言したのだが、ちょっと待て?
「俺、賛美歌って歌いたくねえんだよな、音痴だし・・」
という、輩がいたのではないだろうか?
「どっちかと云うと、お経の方が唱え易いンだよな、節ないし」
という、異端児がいてもおかしくない。
「お釈迦様は、村の誰かに似てるけんど、
マリア様は、外国人だからなあ・・」
という、馴染めない奴がいても不思議ではない。
そういう人は、きっと、
誰にも言えず一人で苦しんでいたに違いない。
彼は、隠れキリシタンの中で、更に隠れていた仏教徒。
つまり、<
隠れ仏教徒>なのだ。
彼の信仰行動は、複雑である。
隠し部屋に皆と一緒に隠れて、聖書の勉強をしながら、
実は、心の中で、念仏を唱えている。
皆が、賛美歌を歌っている時に、口パクでお経を口ずさむ。
皆が、指と指を組んで拝んでいる時に、時々
指をそお~と伸ばしたりしている。
一番の問題は、幕府の役人が来た折だ。
本来なら、思いっきり仏教を信心出来る環境にあるにも拘わらず、
村人が仏教徒の真似をしているリズムに合わせなければならない。
何となく浮ついた信者でなければならない。
バレてまずいのは、
役人にではなく、
村人にである。
この二重構造を演じきるのは、容易いことではない。
これは、アレに似ている。
ドラマの中で、街頭テレビインタビューをされるシーンがある。
「犯人を目撃されましたか?」
『さあ、アレが犯人だったのか、ちょっと大きな声がしてぇ・・』
テレビカメラに向かって、
素人っぽさを演じなければならない。
役者にとっと、アレほど難しいものはない。
<裏の裏>、<逆の逆>
本来ならば、元に戻って、正常な状態な筈なのに、
浮き足だってしまう。
天草の彼も、ヘタに演じている自分に気づいていただろう。
バレやしないかと、ドキドキしていただろう。
(仏様、どうぞお助け下さい)
十字を切りながら、想いは、酔眼の仏にあった。