
洗濯というものは、不思議である。
洗濯には、3つの行程がある。
<洗濯機を回す>
<干す>
<取り入れてたたむ>
この3つ全部を終えて初めて、洗濯が終わったと云う。
しかし、この中で私は、一つだけ興味がないものがある。
<取り入れてたたむ>と云うくだりだ。
洗濯器にシャツや下着を放りこむ。
この時点では、喜々として、放り込んでいる。
ボンボン投げ込むという、一種のゲーム性さえ感じている。
遠くから、洗濯機の開口部をバスケットのリングに見立てて、
靴下を放る。
スポッと吸い込まれた時、快い感覚に酔いしれ、思わず、
「ゴール!」声すら挙げる。
ピ~ピ~ピ~
「洗濯できましたヨ~」
洗濯機の呼びかけに、
中にへばりついた縮んだ洗濯モノを取り出す。
物干しの所に出向き、一枚一枚丁寧に吊るしてゆく。
この時、少しだけ洗濯にたいする情熱が失せかけている。
(願うらくは、干さずにいられたら・・)
甘えた考えが、フワリと脳裏を襲う。
ここまでは、なんとかなった。
しかしである。
その後、数時間・・
窓から外を見ると、洗濯モノが風にはためいている。
「アレは何だろう?」
わざと素知らぬ風を装う。
アレを取り入れて、さらに<たたむ>という行為に、
自分が向かうと思えない。
出来れば、なかった事にして貰えないか?
もし、もう一度洗うというのなら、参加しても構わない。
しかし、取り入れて
たたむのは、気が重い。
なぜか、その行為自体に魅力を感じない。
積極的どころか、消極的にすら腰があがらない。
あのまま、風に吹かれてどこかに飛んで行ってくれ、
なげやりになっている。
コレはなぜなのだろう?
汚れたモノからキレイなものへ姿を変えたのだから、
むしろ、喜ぶべきだ。
むしろ楽しかるべきだ。
ところが、私は沈んでいる。
このまま、部屋に吊るして、そこから直に取って着る、
というズボラなやり方が認められないだろうか?
「はいはい、ゴチャゴチャ言ってないで、
早く、洗濯モノしまってください」
『ほわ~~ぃ』

ソラマメ