昔、主婦は、1円安い品があるのなら、
100メートル遠いスーパーに走ったと言われた。
10円安けりゃ、1キロだ。
10年前、その言葉は、蕎麦喰いに当てはめられた。
《蕎麦好きは、旨いとなれば、100キロ車を走らせる》
ところが、昨今の蕎麦好きは、100キロなんてもんじゃなくなった。
旨い蕎麦があると聞けば、
何百キロだって、目指してハンドルを握る。
新幹線で乗り継いでゆく。
600円の蕎麦を食うために、
数千円の交通費を掛けるのである。
飛行機で行くとなると、万の単位になる。
算数の計算を、決して持ち込まない生き方だ。
さほど、蕎麦には、人を動かす力がある。
人を走らせる動力を持っている。
しばらく旨い蕎麦を食っていないと、落ち着かなくなる。
蕎麦の事ばかり考えていたりする。
昼に蕎麦を食ったのに、夜また、蕎麦をたのんでいたりする。
これって、中毒とは呼ばないのだろうか?
アル中、シャブ中などという言葉はあるが、
蕎麦中とは聞かない。
しかし、この蕎麦依存度は、かなり深刻と言わざるをえない。
なんせ、朝起きたら、もう蕎麦を食いたくなったりしているのだ。
朝昼晩と三回続いても、やぶ坂ではないと言っている。
そう云えば、やぶは、蕎麦やの屋号ではないか。
東京から、500キロも走れば、岩手県に着く。
いまや蕎麦は、男が打つものだと思い込まれているが、
東北の田舎では、男は打たない。
家庭では女性が打つ。
ちらし寿司をお母さんが拵えるように、
お母さんが、蕎麦を打つ。
岩手秋田の蕎麦の産地では、当たり前のことだ。
だから、男どもは、蕎麦が打てない。
打たないのではなく、打てない。
生涯、ちらし寿司を造った事がないのと同じ確率で、
生涯、蕎麦を打たない。
ゆえに、常に蕎麦を打ち続けているお母さん達が打つ蕎麦は旨い。
10割蕎麦だって、簡単に打ってしまう。
これからは、都会を抜けだし、
家庭蕎麦を食ベさせて貰う時代になったのかもしれない。