
『
元来日本人は、これまで楢(なら)の類の落葉林の美を、
あまり知らなかったようである』
国木田独歩が、明治時代に随筆、
《武蔵野》の中で語った言葉である。
楢のたぐいとは、ナラでありコナラであり、
シイタケのぼたぎとなる菌を植え付ける樹だ。
ドングリがたくさん成る樹でもある。
そんな林が延々と続く野原とはどんな所だろうか?
大分県で過ごした高校時代。
《武蔵野》を文庫本で読んだ。
よし、これは実際見てみなければならんナ。
17才で上京し、東京駅に降り立った。
すぐに山手線に乗った。
グルリと回った。
林らしきものはない。
池袋から、私鉄に乗った。
行けども行けども、家また家。
時折チラリと見える緑は、練馬のダイコン畑。
「東京には、もはや武蔵野は無いのか?」
そんな時だった。
地図を見ていると、清瀬市という所に、
《平林寺》へいりんじ、なるお寺があるではないか。
よし、行ってみよう。
そこには・・・
楢の林と、熊笹生い茂る原生林が、長々と続く、
まさに独歩が描く、武蔵野の世界があった。
あれから47年。
以来、平林寺には足を運んでいない。
ひとづてによると、まだ
武蔵野の俤はそのままだと云う。
独歩の武蔵野を、先日さいたま文学館において、
朗読させて貰った。
10代の頃には、漠然としか理解していなかった武蔵野・・
独歩の繊細な文章を音に出してみると、
その快いリズムに驚かされる。
そして会場にお越しいただいた方で、
眠りにおちいられた方は正解である。
武蔵野は、散歩の途中で、眠るように出来ているような気がする。
ふむ・・いま、《武蔵野の俤》と述べた。
俤を何と読みましたか?
その話はまた明日・・・