《芙蓉の人》 ふようのひと
新田次郎著
あくまで小説と言おう。
しかし、実際の人物を小説化した話である。
この小説を、45年前に読んでいるのだが、
今、読み返してみている。
『読み返し』は面白い発見がある。
18才の若者が読む
64才のオジサンが読む
おのずと感性が違う。
どちらも本人なのだが、考え方が違う。
例えば・・
登場人物の年齢が25才だったとすると、
18才の青年イシマルからすると、かなりの年上だ。
喋っているセリフ自体、おっさん的な響きを感じる。
例えば・・
登場人物の年齢が40才だったとしよう。
18才のイシマルからすると、そうとうの翁だ。
しかし、今の私からすれば、まだまだ若者の範疇に過ぎない。
小説の中に登場する様々な人物を想像する。
その想像のしかたが、18才の時と、60才を超えた時では、
捉え方が、かなり違うのである。
小説の主人公に、我々はよりかかる。
全幅の信頼をよせる。
「アナタだけが正しい」と、親指を立てる。
その周りに登場する、ひねくれた脇役を嫌う。
これが、基本的な小説の読み方だ。
しかし、
その、ひねくれたと思った人物を、
作者の意図である斜幕を取り払って観察してみると、
いがいや、普通の人物にすぎなかったりする。
もっとも人間らしい人であったりする。
芙蓉の人
この人は、真冬の富士山にこもり、気象観察を続けた夫婦の、
奥方をさしている。
千代子さん。
実在の人物である。
彼女が記した日記の名前が、《芙蓉日記》。
ここから、新田次郎が、小説の題名に掲げた。
異業をなしとげた二人の物語を、その後幾人かの小説家が
ペンをとったのだが、
新田次郎は、あえて、
明治時代の女人蔑視の時代に、
強く前向きに生きた
若き千代子を描いた。
山にすら登ったことがなかった千代子の目で、
極寒の富士山の厳しさを、
時代を超えて見せつけてくれたのである。
そして18才のけんじろう君には、やはり、
ずっと年上の女の人の話だったのである。