
三浦かるた 《
れ》
歴史をたどれば
三浦一族
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先週の、《る》の時に、相模湾の話をした。
今から数百年前、鎌倉時代にも、
この海域は、船が行きかっていた。
源頼朝らが、原始的な船をあやつり、
伊豆から三浦半島に行き来していた。
人が船を漕ぐ時代だった。
懸命に漕ぐ人が多いほど、生き残れる時代とも云えた。
漕ぐ人の心意気で、大将が決まる時代でもあった。
大将とは、征夷大将軍である。
実は、頼朝は三浦半島で、
政権に返り咲く礎を築くのである。
頼朝は、三浦半島にたどり着いた時、
ルビーの光の筋を見たであろうか。
ルビーという宝石を知る由もないだろうが、
あかあかとした夕日が沈む彼方にあるのが、
汝が囚われた伊豆であったと、
指さしただろうか。
「われは、返り咲くであろう、あの地より!」
声高に叫んだであろうか?
頼朝と三浦一族は深い関係にある。
今でも三浦半島の地名に、
頼朝と親交のあった武士(家来?)の名前が残っている。
《佐原インター》 佐原義連(さはらよしつら)
横浜横須賀道路には、佐原インターがある。
《和田浜海水浴場》 和田義盛(わだよしもり)
《矢部小学校》 矢部禅尼(やべぜんに)
確か衣笠インターの《衣笠》も家来だった気がする。
などと知ったかぶりで書いているが、実は、
大楠山(おおくすやま)に登っている最中、
地元の方に教えていただいた受け売りである。
「あんたが登ってきた芦名やら、〇〇やら□□やら、
みな頼朝の家来やで」
へえ~そうですかと感心しながら、
名前をほとんど忘れてしまった情けない私である。