
「ピ・ピアノがあるんですか?」
驚いた声をあげたのは、
北八が岳の天狗岳の山中にある山小屋、
《黒百合ヒュッテ》のこたつの中だ。
雪が少ない今年とはいえ、やはり冬、
アイゼンをガシガシ効かせながら登ってくること、
標高2400mのところに、その小屋はある。
そもそもこの場所に山小屋できたのは、70年ほど前のこと。
当時としては珍しいことに、一人の女性が、
亡き夫の遺志を継いで、建てたのである。
現在は、その息子の息子があとを継いでいる。
つまり、このあと「先代」という言葉が登場したら、
女性の息子のことだと考えてもらえたら助かる。
この先代は、実に面白い人だったようだ。
ようだ・・と云うのは、その方が出された本を、
2冊読ませてもらったからなのだが、
その本には、ピアノのことが書かれてある。
日本にはあまたの山小屋が存在するが、
ピアノのある山小屋はない。
(と思う)
200キロ以上もあるモノを運び上げる勇気などない。
ところが先代は、2400mの高地で、
コンサートをひらきたかった。
正確に語れば、御自分が聞きたかった。
よしそれならばと、ヘリで運んだのである。
アップライトピアノではあるが、
山小屋の中で、漆黒に輝いていた。
「弾かせてもらっていいですか?」
朝、宿泊客が皆、出発した頃をみはからって、
小屋番さんにお伺いをたてた。
『ええ、どうぞどうぞ』
オーケーをいただいた。
一年間、練習を重ねた、ドビュッシーの《月の光》を、
演奏してみようと腕をまくったのだ。
まさか、山小屋でそれが実現するとは思ってもみなかった。
お客さんがいないのを幸いに、ポロリ~ン・・・
そういえば、前日の天狗岳の頂上では、
視界がほとんどきかない状態で、登頂したのだが、
てっぺんに達した10秒後に、
サァ~と風が出て、霧が吹きとんでいった。
あっという間に、はるか彼方まで見張らせたのである。
なんという僥倖!
なんという風景!
山の上は真っ白な雪景色だというのに、
眼下に見える森や町は、雪のない秋の光景がひろがっている。
まるで、ジオラマを観ているかのような錯覚に陥る。
さてと、実はその先代が、
NHKラジオ《石丸謙二郎の山カフェ》に、
お越しくださるのである。
あっ、明日だ!
いったい身体がいくつあったのだろうというほど、
精力的にいろんな事をなさってきた御仁である。
ピアノのお礼もしなくては・・・

山小屋 黒百合ヒュッテで ひとりピアノを楽しむ私