
「合理的に考えるべきだと思います」
会話というものは、不思議である。
ひとつの文章を、言いかえていくと、
いつのまにか
本来の意味が薄れてくる。
では、冒頭の文章を発展させながら変えていこう。
「合理的な思考を所持すべきだと思います」
「合理的な思考形態を維持することで、
事態は良好になると思います。
「非合理的な思考に陥ると、良好ならざる方向に、
事態の変遷が進むと考えられます」
「合理性と非合理性をテンビンにかけて、
どちらを選ぶかというジレンマのまま、
現在の状況を放置しておくならば、
それは未来への確保、という観念からすれば、
自らの責任を放棄したことになります」
同じ内容を喋っているのだが、
もうここまで来ると、なにがなにやら~
しかし、現実には、
ラストにかいた文章のような会話にしばしば出あう。
ある意味感心して、ジッと聞き耳を立てている。
しかも、これでも足らないとばかり、さらに・・
なかなか最後にマルを付けてくれない会話にも出あう。
「合理的な思考の結果に熟慮することなく、
付和雷同的に賛同する方たちが大勢を占めるならば、
それは、民主的な解決を望む私達として、
常に危機感を抱いていなければならない、典型的な懸念
として浮かんできた一種の社会のほころびと、
言えなくもなく、どうやるのかという、
最終形を想像できないならば、
即刻着手すべき案件に分類すべきだと考えられます」
う~~む・・
なにがなんだろう?
そもそも、最初に書いた文章、
「合理的に考えるべきだと思います」
とて、これで済んだハズ。
「
おい、簡単にやろうヨ」

ときに うつくしく