《残るもの》
人によっては、記録が残る。
スポーツ選手の場合、ほとんどの記録が残っている。
勝ち負けという形でも残る。
では、ほかの職業の場合は、どうだろう?
たとえば、今、騒がれている将棋界。
勝ち負けが注目されているが、果たしてそれは・・
本人としてどうなのだろうか?
もちろん勝ち負けが最大の目標に違いないのだろうが、
棋士が、生涯的な振りかえり方をした時、
残るものは何だろうか?
《棋譜》きふ
戦いの記録である。
2人の真剣勝負の棋譜が残っている。
これだけは、いつまでも残る。
将棋という文化が続くかぎり、残り続ける。
遠い将来、誰かが、その棋譜を見れば、
戦いを再現できる。
実際、江戸時代の棋譜を、現代の棋士たちは、
自宅で再現して研究したりする。
いにしえの棋士が闘っている瞬間を、
少しでも感じ取ろうとしているのかもしれない。
コレが、
残された記録である。
冒頭に述べた、《
残るもの》である。
では、私が続けている舞台はどうだろうか?
今では、ビデオという記憶媒体で残されたりする。
しかし、その昔、今から40年以上前は、
そのようなモノはなかった。
舞台とは、残らないものの代表だった。
その瞬間だけ存在し、消えゆくものだった。
それは正しい。
決して再生できないモノだからこそ、
観客はまばたきすら惜しんで、その瞬間を楽しんだ。
そして、自らの中に、
残した。
残し方は、それぞれだった。
記憶の中で、美化もし、変形もさせ、
強烈な想い出として残した。
先ほどのスポーツや将棋との違いは、
「客観的な記録がない」ことである。
すべては、それぞれ人の心の記憶だけである。
100人100様の記憶として残されている。
しかも面白いことに、芝居は日々毎公演違う。
となると、いったいどれほどの、
「記憶という記録」が残されているのだろうか?