聖火リレーが繋がれている。これまで世界中で、どれほどの多くの人たちが、
繋ぎ続けてきたのだろうか。
リレーとは、100mリレーで分かるように、
バトンを繋ぐという形をとる。
バトンが火なのである。
いやむしろこれは反対だ。
火を繋いできた聖火リレーにならって、
バトンリレーという種目が生まれたのかもしれない。
似ているものに、《パス》がある。
サッカーやバスケットなどでは、味方にボールを渡す時に、
パスをする。
これは手渡すのではなく、いったん自分の身体から離したボールを、
敵味方イーブンの状態にして投げるのである。
これも、リレーの考え方を、スピードをあげるという発想に、
転換したのだと推測できる。
間違っても、責任の放棄や責任の転換ではない。
あくまで、スピードの為である。
いまでは当たり前のように観ている野球だって、
サードが取ったタマをファーストに投げるのは、パスである。
その昔、パスという発想が無かった時には、
タマを取ったら、自分で走って走者に、
タッチに行ったのかもしれない。
パスは落としたら、認められないルールになっている。
やはり大事なモノという根源的な想いがあるのであろう。
聖火リレーはスピードを求めていない。
大事なモノをパスではなく、バトンを繋ぐという心がけで動いてゆく。
バトンの中に込められた、様々なお手紙を運んでいる。
手紙には、未来の希望が書かれてある。
きちんと続く未来があるとも書かれてある。
その未来をどうするかは、
それぞれバトンを受け取った人たちの気持ち次第とも書かれてある。