昨日、本の話をした。《わんぱく天国》 佐藤さとる著
この中に、戦前の子供たちの遊びが書かれてある。
《母艦水雷》 ぼかんすいらい
これは、陣取り合戦と考えていい。
私の育った大分では、《駆逐水雷》 くちくすいらい、
と呼んでいた。
駆逐とは駆逐艦のことで、水雷は、水中爆弾だ。
この遊びは、ジャンケンの考え方で成り立っている。
3つの立場のヒトに分ける。
・大将 一人だけ
・駆逐 大勢
・水雷 少数人
この3つがジャンケンの三つ巴の関係になる。
◇大将は、水雷に負ける
◇水雷は、駆逐に負ける
◇駆逐は、大将に負ける
負けるとは、身体にタッチをされたら捕虜となるルール。
そして、この三者の見分け方は、帽子のかぶり方。
・大将は、普通にかぶる
・駆逐は、ひさしを横向けにかぶる
・水雷は、ひさしを真後ろにかぶる
実戦を見てみよう。
大将は、敵の水雷に怯えなければならない。
その為に、近くに「水雷に強い大勢の駆逐」に取り囲まれている。
ところが、敵の大将みずから近寄ってきて、
我らの駆逐を片っ端からタッチしてゆく。
そうはさせじと、少ない人数の水雷をくりだす。
やはりジャンケンポンの関係が複雑にからみあい、
お互い手を出すものの、引っ込めるという、
非常に難しい戦いが続く。
さて、私が小学3~5年生の頃、大分県の臼杵市に暮らしていた。
今では有名な観光地となった、仁王座という町並みがある。
二つの丘に挟まれた場所であり、その二つの丘の一本松を、
お互いの城とし、30人対30人の戦さが行われた。
時は、夏休み初日。
朝始まった戦いは、昼をすぎても終わらない。
捕虜として掴まると、城である松の木に繋がれる。
繋ぐと言っても、手をつないでいるだけなのだが、
みんなルールだけは守る。
捕虜を助け出すには、大将が敵の城に行って、
仲間捕虜にタッチするしかない。
大将の周りには、20人以上の駆逐がいて、
大所帯で動いてゆく。
その中に2人ほどの水雷が潜んでいる。
では、けんじろう君は何をやっていたか?
身体が小さなけんじろう君であったが、はしこかった。
「はしこい」とは、素早いとか、抜け目がないという意味で、
ある意味褒め言葉だが、ずるがしこいとも言えた。
こいつは、水雷向きだと、大将に一位指名された。
さあ、大任をまかされたけんじろう君。
ジャンケンの仕組みを頭に浮かべ、
二人の駆逐を従えて、敵地の奥深くに忍び寄る。
敵の大将が通るだろう細い道に狙いをつけたのである。
道が狭まくて駆逐が少なくなる瞬間にとびだす作戦だ。
面白い事に、当時、町の中の道だけが、
戦場になっていたのではなく、他人の家の中でさえ、
子供が駆け抜けていたのである。
大人たちも、見て見ぬフリをしてくれていたようだ。
たとえば、昼ご飯を食べているちゃぶ台の横を、
靴を手にしたよその子が、走ってゆく。
天下分け目の決戦と銘打っていれば、それも黙認された。
ついでに、オニギリを差し出されたこともある。
路地から路地へ、時には、屋根を伝い、
垣根の樹々にもぐりこみ、敵の大将をねらうべく忍び込む。
最も大切なのが大将なのだが、それを倒せる水雷も貴重だ。
帽子を真後ろにかぶったけんじろう君を含む3人組は、
いわば最前線の斥候である。
大勢の敵の駆逐におびえながら、猫さながらの忍びをしている。
戦いは夕方になると、一旦中止となり、
翌朝町のサイレンとともに再開される。
勝敗は大将が捕まった時なのだが、
そうそう簡単に捕まらないので、二日に渡って続くのである。
ここでアナタに疑問が湧く。
「駆逐同しがタッチし合ったらどうなる?」
同じ位の者がタッチし合うと、ふたりともその場で、
暫くの間、帽子を脱いで非戦闘員となるのである。
何分そうやっているかなど、子供の遊びにルールはない。
自分がこれくらいと思う、時間帽子を脱いだままでいる。
いわゆるゴルフの不文律ルールと同じで、
自分が自分を律するルールである。
つまり審判がいない駆逐水雷では、
《自分を律するルール》がない限り成り立たない。
言い方をかえると、子供だから成り立つ遊びだと言える。
非戦闘員になった途端ポケットから、
メンコを取り出し遊びだすのは、当たり前だった。
そしてこの戦いは、日本中で形はほぼ同じで、
名称だけ違う名前で呼ばれ、遊ばれていたようである。
はて、どの年代まで、この遊びは続いていたのだろうか・・・

現在の 臼杵市仁王座の町並み
石垣は、忍者のように登る