《槍ヶ岳開山》 新田次郎著江戸時代に槍ヶ岳にみずから登って、
その道を作った僧侶を描いている。
現在、槍ヶ岳にはさほどの苦労がなくとも登れる。
道がしっかりしており、迷いようがない。
頂上の槍と言われる先鋒とて、クサリや梯子がかかっており、
よほどの高所恐怖症の方でなければ、なんとかなる。
よもや、岩慣れした人であれば、
「なんのこっちゃ」的な登攀となる。
ただし、標高は3000mを超えており、高山病の恐れは常にある。
数百年前、まだ草鞋に蓑姿でこの山に登っていた僧侶とは?
人跡未踏、案内人は、いるにはいたが、てっぺんまでは、
誰も到達していなかった。
そんな艱難辛苦の苦行を、なぜ行おうとしたのか?
本の中に書かれてある。
この本を読んでいると、ついあの本を思い出してしまう。
《恩讐の彼方に》 菊池寛著
大分県の青の洞門をミノで掘った僧侶の話である。
絶壁の横に、道を作るべく、洞門を長い年月をかけて掘った。
では、その僧侶はなぜ、偉業を成し遂げたのだろうか?
いや、なぜ苦しんでまで成さねばならなかったのであろうか?
どちらの物語にも、同じ筋書が読みとれる。
若い頃、人を殺めた。
その苦しみから逃れる為、仏門に入る。
それでも殺めた罰から心が逃れられず、
何か人の為になる事をしようとする。
それが、槍ヶ岳開山であり、青の洞門の開通であった。
日本のアチコチに、これとよく似た物語が残されている。
ひょっとすると、起源を同じくする実話が、
形を変えて伝わったのかもしれない。
槍ヶ岳では、播隆上人(ばんりゅうしょうにん)であり、
青の洞門では、禅海(ぜんかい)が僧侶として登場する。
いずれも、架空のヒトかもしれないし、
存在が認められたヒトかもしれない。
口伝で伝わったモノには、むしろ信憑性の高さを感じる。
好きな本を二冊続けて読むと、つい正座をして、
自然と両掌を合わせてしまう。
新田次郎氏と菊池寛氏にも合掌。