「お盆過ぎれば暑さやわらぐ」という言葉は死語になった。30年ほどより以前は、格言通り、お盆が過ぎると、
ホッと、暑さに厳しさがなくなったものだった。
ところがいまや、
「暑さは中秋の名月まで」
9月の中旬にならなければ、猛暑だの熱波だのという言葉が、
マスコミの報道から消えなくなった。
かと思えば、突然「寒い!」という言葉を聞く。
このような季節感が当たり前として育った子供たちには、
「それがどうした」に過ぎないのだが、
なまじっか良き時代を知っている者としては、
戻れないもどかしさが、にがい。
にがいとは噛みしめたくないという実感である。
「じぶんたちのセイでこうなった」とは、誰も認めたくないだろうが、
まぎれもない事実と受け止める。
便利、快適、快楽が生んだ結果と捉えるか、
人間の進化の末に辿りついた産むべきでなかった悲しい頂点と、
捉えるべきか・・・
50年前・・・現在の世界の気候などの状態を、
うすうす感じていた。
警鐘は少なからず鳴らされていた。
聞く耳はあったのだが、聞き流そうとする自分もいた。
ある意味、自分のことで精いっぱいだった。
少なくとも自分が生きている間の話ではないだろうとの、
甘えはあった。
そして、まだ気づかずに多少の甘えが残っている。
「川を汚したら、バチが当たる」
「天に向かって唾を吐く」
いずれも意味は同じである。
むかし、《小さな親切運動》なるものがはやった。
ホンの小さな事でもいいから親切をしようと、働きかけた。
これにならえば、自然に対して、
小さな親切をしなければならない。
小さな親切とは、人に強要する言葉ではない。
自分で考える指針にすぎない。
「今頃言い出すのか」と言われようとも、
「何事も遅いということはない」という信念は、
こんな時にも、チカラを発すると信じよう。
ウスユキソウ(エーデルワイス)