「人を説得する」ということをする時、基本的に言葉を使う。喋って説き伏せようとする。
それは当然なのだが、説得には難しい言葉を使うべきではない。
難しい言葉や言い回しは、理解するのに時間がかかる。
たとえ、それが正論であっても、従う気持ちが薄れる。
正論なら正論であるほど、逆らいたくもなる。
ある正論を、30秒ほど聞いていたら、
「なるほど」とヒザをうったのだが、そのあと、
10分間の理路整然とした説明が続いたら、
正論など、どうでもよくなった。
おそらく文章的には、正論がもっと分かりやすく、
もっと確たるものとして伝えられている筈。
なのに、アクビが出てくる。
反対意見など持っていなかったのに、
いっちょ、反論でもしてやろうか・・
抗う気持ちが湧き起る。
せっかく正しいことを伝えて貰っているのに、
いつのまにか、従いたくない反抗心の方が勝ってくる。
これはすべて、「難しい言葉」を並べられたセイである。
「子供でも分かる言葉」でなかったとも言える。
せめて中学生並みで喋って欲しかった。
こういうと、「今の中学生は難しい言葉いっぱい知ってるよ」
反論がくるのだが、中学生の使う難しい言葉は、
それを意識して使っているから、嫌味はない。
むしろ、微笑ましくもある。
しかし、いい大人が、これ見よがしに同じ語りをややこしくすると、
自分が頭が良いことを自慢しているように思えてしょうがない。
私なんぞの頭では理解できない語り内容となっている。
そんなに頭が良いのなら、
この私でもすぐに分かる言葉で説得してほしい。
「田畑における作物の収穫状況が、我々の将来的な健康という
皮肉な現実と密接に絡みあっている事実を、いま確認してしまえば、
ややもすると、怖がりがちなコロナ禍における生活の不安を、
たちどころに拭い去ってくれるヒントとなるかもしれません」
先日、聞いた(なんかこんなだった)お話しである。
簡単に言えば、
「米、食いな」であろう。
私だったらこう言う。
「お米食べましょう、余ってるから・・・田んぼも」
東京湾小アジのムニエル