昨年、私が書いたモノの中に、カレーライスを箸で食べる記述がある。
もちろん昔の話なのであるが。
《カレーの真実》2020年12月7日
なぜ、カレーを箸で食べていたのだろうか?
答えは簡単だった。
スプーンが買えなかったのである。
スプーンとは、カレーを食べる時だけに使うので、
ある食べ物に特化した道具など買う余裕がなかった。
我が家はかろうじて、人数分スプーンを揃える努力をしたのだが、
クラスの多くの友人たちは、箸で食べていた。
とはいえ、その頃のカレーといえば、メリケン粉を、
たくさん練り込んでいるので、塊になりやすく、
箸でもそれほどの苦労をすることなく口に運べた。
試しにけんじろう君もやってみたが、最後の一粒まで、
キレイに皿をさらえた。
それでもスプーンほどにはさらえきれないので、
友人たちは、最後は指でさらうのだと語っていた。
皿を舌でナメルというハングリーな君もいた。
ハングリーでもないのに、舌で舐めていたボクもいた。
スプーンというのは高価な贅沢品の範疇に入れられ、
よもやフォークは無かった。
先割れスプーンという、スプーンとフォークを合体させた道具が、
学校の給食の時に現れ、皆は、まず驚きの声をあげ、
器用にそれを使った。
のちに、スプーンとフォークの本物を見た時に、
これが元祖なのかと、膝をたたいたものだった。
日本のカレーがインドカレーのように、汁モノでない理由は、
箸で食べようとしたからのような気がする。
カレーを箸で食べるのは、問題がなかったものの、
家庭では、シチューは、箸では掬えないので、
汁だくさんのシチューは作られなかった。
ねっとりした粘度の高いシチューを「シチュー」と呼んだ。
今思えば、ホワイトシチューとは、焼いていないグラタンであった。
あの中に散らばる肉片や、タマネギを箸で摘まむのだから、
当時の子供たちの箸使いの器用さは、特筆される。
上に乗せられたグリーンピースを、摘まんで口に運ぶ動きのスピードは、
精密機械のチップを造るときのマシンの腕の動きを思い起こさせる。
「目にもとまらず」
だれかに獲られてしまうのではないかと恐れているかのような、
凄まじい速さである。
先日旅先のコンビニでカレーライスを買い、
スプーンを貰うのを忘れて、ホテルに戻った。
やむなくワリバシでカレーを食べた。
なんなく食べることが出来た。
あの言葉が浮かんできた。
《みつごの魂、百まで》
ん・・・?
意味が少し違うな――
《六十の手習い》
ん・・・
これも違うな――