木が岩をとりこんでいる。ここまで取り込むと、もはや岩ごと樹木の一部になっている。
山の中に生えている樹木は、多かれ少なかれ、
岩もしくは石をとりこんでいる。
理由は分かりやすい。
山と言うのは、ほとんどが岩でできている。
樹木で覆われているので、土の山だと思われがちだが、
もし神様のでっかい放水器で洗い流したら、全山岩であると分かる。
岩の上にうっすらと土が覆っているのである。
土の厚みなど人間の伸長にも満たないことが多い。
その土とて、樹木の落ち葉が気の遠くなる年月の末、
積み重なりこしらえたモノだ。
だから冒頭の岩を台座にした木を見ても、驚くことはない。
いつも見ている山の中の樹だって、見えていない部分で、
岩を掴んでいるかもしれない。
むしろ、掴んでいた方が、強風で倒れる心配が薄れる。
ところで、さっきから、きと書いて変換すると、
木になったり樹になったりする。
意図的に変えて使っているのではない。
パソコンが前後を斟酌して、きまぐれを起こしている。
パターンは探れない。
どっちでもいいとは思っていない。
木と書けば、細い木を連想し、
樹と書けば、それなりのおおぶりな樹を思い浮かべる。
つまり、植樹をしたとして、芽が出てやっと50センチほどになった時、
「樹が生えてきた」とは書きにくい。
したがって冒頭の
「木が岩をとりこんでいる」
これは、「樹が」にするかどうか迷った結果なのだ。
冒頭の「岩をとりこんだき」が、選択を迷う境目だと睨んでいる。
「き」は細いくせに、がっしりした根の態度は、「樹」を使いたくなる。
根に態度があるのかと問われれば、それは・・・
あります!
根は、見えている部分が極端に少ないので、見えている場合は、
主義主張が激しくなります。
特に冒頭のような、ほとんど赤裸々に剥きだしになった場合、
「なぜ、こうなったのか」という歴史をすべて、説明しているのです。
哀しくも激しい物語りが、一見芸術のようにみえる根の張り方で、
魅せてくれています。
(いつのまにか、ですます調になっている)
この木の姿に、姿勢をただしてシャッターを切ったのですが、
木の向こうに、神社の屋根が写っているではありませんか。
影のご神木なのかもしれません。
撮られた場所は、沖縄の伊江島の《たっちゅう》でした。