ただ待つできますか?
ただと云うのは、なにもしないで、という意味。
待っている間に本を読むとか、テレビを見るとか、
数独クイズを解くとか、スマホでメールをうつとか、
とかとかの、とかをしないで、ただ待つ。
じっとしている。
眠りもしない。
ボーとしてるのは許す。
たとえば駅で列車を待っている。
15分以上待つ。
そんな時、本も雑誌も持ってなく、音楽を聴く道具もなく、
ホームのベンチに座っている。
とりあえず、目の前の広告看板を読む。
あっという間に読んでしまう。
首をまわし、あたりにある看板を全部見る。
文字が大きく、情報は少ない。
さらに、あっという間だ。
遠くの中華屋の看板を見る。
喫茶店の名前を見る。
それだけだ。
見る文字が圧倒的に少ない。
文字読みたい症候群は、ただ待つことができないからだ。
列車の到着だけに集中して、ただじっとするという体力がない。
なにかに、うつつを抜かしていないと、
待つという単純作業ができない。
そもそも、ジッとしていると云う行為が最も不得意な私に、
待つという、ジッとする極限の行為をさせている。
店に入り椅子に座った途端、牛丼が目の前にドンと出てくる、
と言う理由で、吉野屋が好きになった私である。
立ち食い蕎麦屋よりも早い店ができたと、
その昔、こ躍りしたものだった。
そんな私なのだが、なぜか人は待てる。
誰でも人は待てる。
待ち合わせでは、ずっとただ待つ。
たとえ時間が過ぎて何かあったのか心配になるものの、
待っている。
それともうひとつ――
ドラマの出番は待てる。
どんなに時間を押しても、待つ。
時間を押すとは、予定時間に始まらないことを言う。
1時間押せば、1時間準備をしたままで待つ。
3時間押せば、3時間待っている。
イライラはしない。
なぜか平然としている。
それが当たり前だと思っているのか、諦めているのか、
定かでないが、なぜか待てる。
ただ待つ――
永遠のテーマである。