楽器かぁ~今、ピアノを弾きながら、ふと思う。
父親は、なぜ、次男坊のけんじろう君に、
楽器を教えなかったのだろう?
正也(まさや)という名の我が父親は、大学時代、
明治大学で、マンドリンクラブに入っていた。
かの有名な曲《酒は涙かため息か》を作曲した、
古賀政男氏が師匠だった。
国民栄誉賞受賞者と言った方が、拝み方が変わるだろうか。
正也はマンドリンだけでなく、バイオリンにギターも習得し、
コンサートで演奏もしていた。
戦争でシベリア抑留となった為、10年間日本を離れ、
帰国した時は、35才になっていた。
36歳の時、結婚し、長男が生まれ。
37歳の時、次男が生まれ、謙二郎と名付けた。
ところがなぜか、大好きな楽器を次男坊には教えなかった。
長男だけに教えようとしたのである。
だが、どういう神様のイタズラなのか、長男は不器用だった。
特に指先は、かなしいほど不器用で、その上、
左利きだった。
教えたい、バイオリンやギターは左利きには不向きである。
であるならば、次男である右利きのけんじろう君に、
グルリと目線が向いても不思議でない。
ここで、正也の学歴が悪い方に作用する。
正也は理系だった。
数学を得意としていた。
亡くなる93才の朝まで、数独クイズの、
超難関レベルを解いていた、数学マニアだった。
正也は、理ズメで考えた。
「長男が不器用なら、その弟はもっと不器用に違いない」
理系の比例方程式を、弟に当てはめた。
残念なことに、その弟が訓練しなくても手品ができるほど、
器用な指を持っているなど知るよしもなかった。
よもや、初めて捌いたカワハギを、フグ造りにしてしまえる、
包丁使いを持っている事を、知ろうともしなかった。
よって、次男坊は楽器の世界から遠ざかった。
その後、数十年、楽器を見るたびに、目がランランと輝くものの、
触る事もなく、教えて貰うこともなく、
ただ、遠い世界の夢物語だと思い続けていた。
ギターは聞くモノ――
バイオリンは見るモノ――
楽器は、誰かが弾くモノ――
私は、正也さんを恨んでいない。
むしろ、ありがとうと言いたい。
あの頃、器用な私に楽器を与えていたら、
音楽の世界に没頭し、その世界から出られなかっただろう。
そんな性格である。
ひょっとすると、その性格を見抜いて、
楽器を教えなかったのだと、今では思えてしかたない。
「いずれ、自分で気づけヨ」とほおっておかれたのである。
楽器に向かわなかった分、ありとあらゆるモノに気が向かう。
山にも海にも、地底にも、舞台にも—―
そして遅まきながら、楽器にも気が向いてきて、
ピアノの鍵盤に指をふれている。
ある意味、60年、ほおっておかれた。
さあ・・・・・どうする?

練馬区のカデンツアホテルのピアノ