わたしが聴いている私の声は、変です。どういう風に変かと言うと、なんか変です。
ずいぶん変に聞こえます。
人が発する声は、聴いている人の耳に届いている音と、
発した本人が聴いている音とは、違います。
本人の身体を響かせて届いている分、違う音に聞こえる。
それは誰もが気付いている現象でしょう。
それでも、自分の声を客観的に聞いていない一般の人には、
自分の声を聴く機会はあまりありません。
だから、たまに聞く機会があっても、
「なんじゃコレは」で終わってしまいます。
ところが、私のように聴く機会が頻繁にあり、
長い間聴き続けてきた人間はどう感じているのだろうか?
実は、完璧に客観視できないのである。
――なにか変。
これが感想である。
世界的なソプラノ歌手、田中彩子さんが語っている。
「自分の声だけは、聞くことができない」
ボクらが感動して聴いている田中彩子さんの声を、
本人は聞いていないと語る。
声というものは、こころの在り方に左右される。
その時代の声というより、その日前後の暮らし方の影響がおおきい。
しかし、プロとして声を出している人は、
ある程度のレベルをキープしなければならない。
ある程度とは、数値化すると、90点以上と言えよう。
10点は、許すという言い方にもなる。
常に100点をとっていたのでは、がんじがらめになって苦しい。
90点ぐらいが、ちょうど良い塩梅だと信じている。
これは蕎麦打ちの極意に近い。
つねに90点をとるのは、かなりの努力がいる。
それでも90点をとらなければ、蕎麦打ち職人とは言えない。
人がうなる蕎麦を毎日作るのは、それなりの心構えがいる。
・・・のだと、蕎麦職人たちに聞いた。
言い方を変えると、余裕は10点しか残っていない。
よし、がんばろ・・・せめて92点を――