「一喜一憂するな」翁に諭される。
勝った負けたに、いちいち反応していたのではたまらない。
長いトータルで考えなさいと、たしなめられる。
「ふむ、そうだな、今日の負けは、明日の勝ちで取り返せば」
負けた時には、特に一憂したくない。
だから翁の言葉にこうべを垂れる。
ん・・・それでいいのか?
一喜一憂しなくていいのか?
ひとつ喜び、ひとつ憂うと書く、この言葉。
勝ち負けに反応しまくる、この言葉。
勝負の世界で、勝ち負けに拘らなくなったら、おしまいだ。
一憂するから、反省する訳で、
一喜するから、頑張れるご褒美となる訳で・・・
自らを現役と捉える人の場合は、座右の銘に、
《一喜一憂》と書いても、色紙が汚れるとは思えない。
スポーツのプロの場合、引退は年齢の若いうちにやってくる。
ゆえに、一喜一憂する時間はあっという間だ。
同じプロでも、将棋の場合、引退は50歳を超える。
60超えても現役は少なからずいる。
彼らは、毎勝負で、一喜一憂している。
負けた時の悔しがり方は、半端でないと伝わる。
《怒髪天を衝く》とは、将棋の棋士から生まれた古語、
ではないかと思われるほど、悔しがる。
負けることが、これほど嫌いな職種もないだろう。
子供の頃に負けると、ワンワン泣いてしまうそうだ。
そのくらい負けが嫌いな人たちが、プロとなる。
ところが不思議なことに、将棋とは、おしなべて、
勝ち負けの勝率は50パーセントに近づく。
勝ちが負けを少し上回っている方たちが、プロとして、
年齢を重ねている。
彼らがもし、一喜一憂しなくなったら、負けの方がうわまわり、
引退――となるのだろう。
「野球やサッカーはリーグ戦だから、トータルで」という意見には、
こう答えよう。
将棋の戦いも、ほとんどがリーグ戦。
では、役者の世界はどうなの?
その答えは、分かりやすい。
毎回が、一喜一憂。
役者が集まれば、平静をよそおいながら、
自らの芝居に一憂している。
言葉には出さないものの、
「ああすれば良かった、こうすれば良かった」
憂いの宝庫である。
なぜ、ほかの役者の憂いが分かるのか?
はい、彼らの口からさんざん聞いているからであります。

駒柱が立つ