おそらく年のころ70代後半、ひょっとしたら80になんなんとした男性。
通路をゆっくり歩いてきたと思ったら、
そこに置いてあるピアノに近づいた。
設置してあるカゴに、荷物をそっと預けると、
座るのももどかしそうに椅子を手繰り寄せるようにして腰かけた。
キャップは被ったままだ。
軽く丸めた背中が熟した年つきを感じさせる。
その姿からは、現在の職業は見いだせない。
当然、その昔の姿も、浮かばない。
《ご老体》の一言で片づけられてしまう風体である。
ただ違うのは、首都圏の渋谷駅のすぐ近くのビルの通路で、
ピアノを弾こうとしている現実だ。
ポケットから、紙片を取り出した。
音符が書かれてある小さな紙・・・
日本語で、「スマイル」と書かれてある。
簡単な音符だけが記された楽譜――
ポロロ~~ン
肩が動き出したと思ったら、ピアノが生き生きと音色を奏でだした。
とたん・・・両指がとんでもない動きを始めた。
目にもとまらぬとは、このことで、すさまじい高速弾きである。
いわゆるジャズ!
チャップリンの映画の曲、スマイルが、おどろくべきアレンジに。
たった一音の中に、いったいどれほどの音を入れ込むんだ?
ジャズとはそういうモノだと分かってはいても、
この街角で、ご老体から溢れてくるエネルギーは、すさまじい。
なんたって、叩き圧が強い。
《叩き圧》と言ったが、ピアノ界では、なんと言うのだろう?
習字では筆圧と言うのだが・・・
登場の仕方の弱弱しさと、ギャップありすぎの力強さである。
ん・・・?
以前にもこんなシーンがあったな?
30数年前、ニューヨークにタップダンスのシューズを持って渡った時。
ハーレムの劇場、アポロシアターにタップダンスのショーを観に行った。
出場していたのは、すべてブラックのご老人ばかり。
60,70当たり前、80歳もおられたかもしれない。
実はずうずうしく楽屋も訪ねたのだが、そこには、
ヨボヨボと表現しておかしくない方たちばかりで、
立ち上がるのさえ、ヨッコラショ(おおまいがっ)。
座る時も、ウンコラショ(しっつ)。
トイレから帰ってくれば、ハァハァと息遣い。
ところが・・・
そのあとのステージでは、客席の私は驚きを通り越し、
口がぽかんとあいたままだった。
なんせ、すさまじいタップの妙技を見せるのは、まだしも、
ジャンプしたり、数人の横たわったヒトの上を飛び越したり、
さっき楽屋にいた人たちとは別人がいたのである。
劇場が感動の拍手に沸いたのは、当然と言えるだろう。
アンコールには、さらにヒートアップし、
華やかなショータイムで観客を酔わせてくれた。
んで、楽屋に帰ってくると、ふたたび只のじい様に戻るのである。
渋谷のじい様も、マイ楽屋に帰ると、
只のおいぼれジイ様を演じているのだろうか。