《すもつくれん》大分の方言である。
「ダメな」 「こんな簡単なこともできない」という意味で使われる。
子供の頃に、なにか失敗すると、この言葉が投げかけられる。
「すもつくれん奴っちゃな」
大人も子供も使っていた。
耳から覚えたので、言葉の意味は知らなかった。
しかし、今コレを分解してみると、言葉どおりである。
《酢も作れん》
酢さえ作れないと言っている。
《酢》の漢字を分解すると、酒編に作ると書く。
つまり、酢は酒から造るものだ。
特に、日本酒は、ほおっておけば酢になる。
世界中にあるあまたの酒は、ねかせておけば美味くなる。
ところが、日本酒だけは、なぜかねかせると酢になる。
よって、できたてが旨いのである。
あれは、30数年前の夏だった。
ある劇団に客演していた私は、新潟県の町で舞台をやっていた。
芝居がハネたところで、地元の名士の方が、
「ちょいと一杯やりましょう」
出演者にお誘いをしてきた。
なんでも、以前からこの劇団のファンで、足しげく通ってくれている。
そうでなくとも、酒どころの新潟で一献となれば、腰は軽い。
酒場に移動し、しばらく舌を鳴らしていると、
「河岸を変えましょう」ってなことになり、
どうせなら我が家でってんで、
タクシーでその方の立派なお宅に呼ばれることとなった。
伺ったのは、役者3人。
タクシーが門をくぐるという、
東京ではありえないような邸宅にお邪魔するや、
奥から、ご主人が金色の風呂敷包みを出してきた。
中から出てきたのは、桐の箱に入れられた一升瓶。
「わたしゃ酒が一滴も飲めないもんですから、こんな日の為にと、
とっておいたんですワ」
和紙をバリバリと破り、一升瓶の栓をポンと抜く。
薩摩キリコのグラスを並べ、トクトクトク・・・
「さあさ、どうぞどうぞ」
どうぞと言われればそりゃあもう、我らありがたく押しいただく。
一個10万円はくだらない薩摩キリコごしに、
ご主人の穏やかな笑みが見える。
年のころ70ほどで、酒を飲めないということは・・
そういえば、飲み屋で「乾杯」のあと、飲む真似だけしていたらしい。
ご立派な方だ。
さて、薩摩キリコに口元に近づけたところで、イヤな予感がした。
「とっておいた」というご主人の言葉。
横にいた先輩役者が、口をひらく。
「いつ頃からとっておいたのでしょうか?」
すると、急に胸をはるなり、
「もうかれこれ10年ほどになるでしょうかネ」
ウイスキーやワインをねかせると美味くなる、
という情報は知っているらしい。
皆の手がとまる。
冷酒とはいえ、かすかな香りがする。
それは子供の頃、酒屋ではなく、味噌醤油屋でかいだニオイだ。
ええいままよと、グラスからゴクンッ
酢であった。
正確に申せば、半分酢になった液体。
一瞬、身体によいのか?
良し悪しの迷いが生じた。
しかし、酒が腐るとは聞いたことがない。
酢を飲む健康法もあると聞く。
とはいえ、グラスをあけられる自信がない。
ニコニコとほほ笑むご主人の顔を見ていると、
「コレは酢です」とは、口が裂けても言えまい。
すると、隣の先輩が、
「いや~これほどのモノを呑んだことはありませんナ」
唇をぬぐったのである。
そうか、この場はそれで行こうというサインを発してくれた訳だ。
(ウソはついていない)
しかしながら、先輩のグラスは動かない。
さらに呑みすすめる気配がない。
さあ、どうする?
たとえ酢であろうとも体に害がない限り、
注がれた一杯は、あけねばならないだろう。
そこで私は、目をつぶって一気に喉奥に流し込んだ。
プファ~
一生分の酢の物を喰った時のような吐息を吐き出しながら、
グラスを置こうとした刹那――
「おぉおぉ見事な呑みっぷり、サッサもう一杯」
一升瓶を両手で傾ける翁。
(・・・ほんとに身体にわるくないだろうか)
翌朝、3人が、顔を合わせた時、
「この話は30年は黙っておこう」と示し合わせた。
翁の年齢が70才であるなら、今頃100才を越えているハズ。
もう、時効だろう。
その節は、大変ありがとうございました。
帰ったあと、しばらくの間、酢の物が食べられなくなりました。
しかし、翁の親切なお心だけは、しっかりと受け取りました。
ソチラの世界に伺いした折には、今度は正直に語ろうと思います。
「コレは酢になってますよ」