《照らしてみるとオジサン》久々に、口癖オジサンの登場だ。
「我々の会社に照らしてみると・・・」
何かの業務に対して、例えの対象をわが社にしている。
「照らす」という言葉を使っている。
照らすとは、お日さまとか、外灯とかに照らされるイメージがある。
この言葉を使うということは、これから話す特定のモノに、
スポットを当てようと目論んでいる。
「我々の町に照らしてみると・・・」
これは、
「我々の町に当てはめてみると・・・」
と同じ感覚で使っているらしい。
「照らす」と「当てはめる」。
オジサンは、どっちを使っても良いのだが、照らすが好きらしい。
「当てはめる」では、きちんとハマらない場合、
微妙な問題が起こってモメる気がする。
そこは、大雑把に「照らし」た方が、ややこしい問題が起きにくい。
つまり、やや逃げている言葉を選択している。
すると――
「この偽装詐欺行為を、現代に照らし合わせてみると・・・」
オジサンは、少し変化させる。
「合わせる」という言葉にも参加を求めた。
照らして良く見えるようにした状態のモノを、近くによせて、
合わせてみると、合致しているかどうか正確に分かるという意味だ。
そして――
「照らし合わせた結果・・・」
さっそく、結果がでたらしい。
このオジサンは、単にこの言葉を慣用句として使っているだけでなく、
即、結果に結び付けようとしている。
なかなかの手練れである。
ところが時に――
「照らしてみたものの、ウチの工場では、偽装ははっきりしません」
曖昧な結果に、言葉を濁している。
これは、「調査した」と言う言葉の代わりに使っている。
調査したと言えば、結果をはっきりしなければならないので、
濁せなくなる。
濁すという、日本語の広範性に期待している。
さらに――
このオジサンは、逆襲もする。
「そらアンタ、照らし過ぎやろ」
あんまり細かいことに光を当てないでネ、と懇願している。
オジサンの額が最近、テラテラしてきたのは、
照らされ過ぎた人生の輝きのセイかもしれない。
テラス (軽井沢)