
《
八ヶ岳 ギボシ》
フルネームで自分の名前を言うようになったのは、
25歳の時に遡る。
初めて一人住まいのアパートに黒電話をひいた。
大人になって初めてのことだった。
個人電話である。
なんか嬉しかった。
とはいえ、誰からもかかってこない。
当たり前だ。
番号を知っている人は10人もおらず、
オマケに、その人たちと毎日芝居の稽古場で会っている。
他に知っているのは親と不動産屋だ。
親は、大分県におり、その昔の、
市外局番に電話をかける際に高額料金をとられる時代を、
知っている世代だ。
不動産屋からかかってきたとしたら、「出て行け」の合図だろう。
よって、せっかく電電公社に登録して敷設した黒電話の、
リ~ンと言う音を、聞いたことがなかった。
そんな時、突然、大音量が鳴り響く。
リ~~~ン リ~~~ン リ~~~ン
普段、ほとんど鳴らないものだから、その音がいとおしくて、
しばらく聞き惚れてしまった。
6回目のリ~~~ンの後、黒い取っ手を持ちあげる。
「はい、いしまるけんじろうです」
なぜか、フルネームで挨拶した。
個人を強調確認したかったのだと思われる。
「いしまるです」
では、他に誰かがいる中の「いしまる」であって、
ひとりだけの電話と言う意図が伝わらない。
そこで、ついフルネームで喋ったと思われる。
そして、これが通例になった。
慣習となった。
電話に出る時は、フルネーム。
掛けてきたヒトは、ややたじろぐ。
中には、たじろぎついでに、
自分もフルネームになってしまうヒトもいた。
「ひらたみつるだけどぉ~」
つい、きちんとした挨拶にしようと身を引き締めたらしい。
引き締めたワリには、「だけどぉ~」とだらしなくなっている。
当時の平田満君は、世間的には、まだ有名ではなく、
もっと無名なイシマルくんに、リーンを聞かせてくれる為に、
電話を掛けてくれた心優しい人であった。
つまり、用事は無い。
「じゃあね」
と電話は切れる。
引っ越し祝いという言葉があるように、
電話祝いをしてくれているのである。
リ~~~ン リ~~~ン リ~~~ン
「はい、いしまるけんじろうです」
「あのぅ、はせがわやすお だけどぉ~」
電話祝いがかかってくる。
やはり、昼間に芝居の稽古をしていた仲間である。
月々の基本料金ばかりで、
通話料金はゴクゴクわずかな黒電話であった。