旅館に泊まり、ぐっすり眠った朝、伸びをしながら、 起き上がってみると、リビングに夕べ着ていた浴衣が落ちている。
コレは、置いたのではなく、落ちている。
中身がスッポリ抜けたセミ殻に似て、
抜けた人間の性質までが、そこに落ちている。
随分、いい加減な性質らしく、
立ったまま脱ぐというより、歩きながら脱皮した感が強い。
畳むとか掛けるとかを、する気がない。
せめて、寄せる程度の気遣いもない。
ハラりと落ちたそのまま。
山の中で遭難した人が、なんとか歩き続けて生還することがある。
40年以上前、ヒマラヤ(中国)の《ミニヤコンカ》から、
19日間自力で生還した、松田宏也(まつだひろなり)氏の場合、
標高7000m以上の高山から、マイナスの気温の中、
手足凍傷を負いながら、下り続けた。
やがて、身体にまとっているモノが脱げだす。
靴ひもがとけるのだが、両手が全く動かないので、
ヒモが結べない。
ズボッと靴が脱げても、はけない。
そのまま歩く。
ズボンのベルトが外れても、どうしようもない。
そのうち、ズルズルと落ちていき、脱げる。
両手が動かないだけでなく、それらを持ち上げる気力がない。
幻覚を見ながら、ただただ下界へと身体を押し下げてゆく。
歩くことも、ままならなくなり、這いずるようになる。
上着も脱げる。
いろんなモノが、身体から剥がれてゆく。
《生きる》という執念だけが身体に残り、ズルズルと降りてゆく。
3週間で、体重が62キロから32キロに減り、
つまり、30キロの体重分のエネルギーを使って、
生還を果たした。
いまだ高山からこれほどの長い時間をへて生還した人間はいない。
《ミニヤコンカ奇跡の生還》 松田宏也著
本人の著書にすべてが記されている。
旅館の畳の上に落ちている浴衣を眺めながら、
服が脱げてしまう不思議さを思いうかべていた。
この浴衣は、眠気と酔いの悪さが引き起こした結果である。
それに加え、中身の人間の資質だ。
対し、松田氏の場合、《究極の脱衣》ではないだろうか。
仮に私が、さらにいい加減になり、
もっとどうしようもなく横着になって、浴衣が脱げたとしても、
資質の高い松田氏の境地に達することは、まずない。