山小屋で見つけた爪楊枝
あるとき、ふと思う。
小さなことに、喜ぶ。
ささいなことに、感動する。
「たった」とか、「ほんの」とかの、極小言葉が嬉しくなる。
よくよく考えれば、ボクらは、小さな集合体だ。
「私」という単位で、生きている。
「ボク」だの「うち」だの、「おいら」だので済んでいる。
これが公人ともなれば、
「私たち」 「我々」 「この街では」となって、
最終的には、「国民の」とまで行きつく。
いや、行きつく先は、「人間として」であろう。
ちいさい単位の「私」は楽だ。
私にだけ、こだわっていれば済む。
たとえ家族があったとしても、私の単位は崩れない。
いずれ「私」だけに収縮していく。
だからと言って、私だけでは生きていけない。
ちいさな単位の私は、ちいさな事に喜ぶ。
誰もが「あっそ」的なできごとが面白い。
「ふ~ん」的な言い方のできごとでもある。
ヒトによっては、「だからなんなの」と言われかねない。
小さな私は、それらの出来事を、生まれて50年間、
ずっと自分だけで楽しんできた。
面白がってきた。
それがある時、パソコンで語ることができると言われ、
では、文字で語ろうと、20年前このオフタイムを始めた。
私は、人類について語ろうとは思わない。
思ったとしても、その能力がない。
国家すら語れない。
町や村でもむつかしい。
語れるものはやはり、「私」という単位で精いっぱい。
私が見つけたモノが、限界なのである。
だから、ちいさい。
なにもかもが、ちいさい。
「イシマルさん、そんなものにこだわっていると、
人間がちっちゃくなりますヨ」
ひとに言われる。
そのありがたい進言には、こう応えている。
「いいもん、ちっちゃくても・・・
むしろ、ちっちゃくなりたいもん」
植村直己氏サイン