
《
石鯛の刺身》
魚屋の店頭で、空想にふけっている。
目の前にある魚を、どう捌いて、どう刺身にするのか?
目の前には、うるわしい魚たちがひしめきあっている。
どれひとつとっても、賞賛の嵐の魚たちだ。
私の、いきつけの魚屋は、新鮮さにおいては、
胸を張り過ぎて、のけぞりすぎて、軒先がめくれあがっている。
そろそろ修理しないと、台風で飛ばされそうな趣の店がまえ。
この風情で、魚を売ろうとしている。
魚屋が、ケーキ屋のような風情の所を見たことがない。
基本的に、じめじめと湿気ている。
店と道路の境界がはっきりしない。
前にでっぱる部分が多い。
どこか最前線なのかが、あいまいな店造りとなっている。
時折、シャッターの降りたその店の前を通る機会があるのだが、
魚屋と気づかずに通り過ぎる。
そのでっぱりの最も客側に位置する魚は、本日の目玉である。
どこに出しても恥ずかしくない一級品が、ピカピカしている。
青物であることが多い一帯といえよう。
イワシだのアジだのが頭を左にして横たわっている。
「コレ見たら、うちがどんだけ新鮮か分かるっしょ」
ご主人の活きのよさが伝わってくる。
白身魚や大きな魚は、八百屋の後ろの方にある。
あっ、今、《八百屋(やおや)》と言ったのは、形状の話だ。
舞台で、床が前側に前傾している作り方を《八百屋》と呼ぶ。
八百屋や魚屋の商品の並べる台が前傾している様子を、
マネて表現している。
つまり大きく高い魚は、
前傾した台(やおや)の後方に鎮座している。
舞台では、これもマネしている。
主人公などの重要な人物は、客から遠い舞台後方に居る。
なぜだろうか?
理由は、顔の向き である。
主人公が奥の方に居ると、下っ端は奥を向いて喋らなければならない。
必然、顔が奥を向く。
しかし主人公は、誰と話していても、前を向いたままで良い。
そのうえ、主人公が奥の高い所に居ると、なぜか大きく見える。
段々の高い所だけでなく、平たい床の場合には、
床全体を八百屋(ななめ)にする。
主人公が奥の高い所に居ると、なぜか大きく見える。
目の錯覚で、奥に行けば行くほど、大きく見える。
これらがフィードバックされて、魚屋でも八百屋の棚が、
奥の鯛を《大きな鯛》に見える仕掛けとなっている。
ゆえに前の方にいたイワシたちの新鮮さも錯覚の手伝いをし、
「あら、あの大きな鯛は新鮮だワ」
客は、買い求めたくなるのである。
一見じめじめして汚れた感じのたたずまいは、
これらを逆転させる効果を生み出している。
「過剰包装してません」 効果と言えよう・
「インチキしてません」 効果とも言えよう。
石鯛のアラの蒸し