蕎麦屋好きである。
旅をしていて、蕎麦屋を探すのは楽しい。
旅とは、蕎麦屋を探す行為だと勘違いしたくなる。
午前11時を過ぎると、小腹が空いてくる。
蕎麦でも食べようか・・と考え始める。
考え始めた途端、<蕎麦でも>ではなく、
<蕎麦を>食べように考えは進化している。
進化は更に進み、
<絶対蕎麦を>に目標は決まる。
さあそうなると、車を運転している私の目は、
蕎麦の文字しか目に入らなくなる。
<蕎麦、そば、ソバ>
ありとあらゆる看板の中から、その文字を抽出してゆく。
頭がフル回転を始める。
知る人ぞ知る手塚おさむアニメ<
ソラン>の主題歌を
蕎麦バージョンで歌ったりする。
「♪~そばぁ~ソバァ~蕎麦ぁ~♪~遥かなぁ宇宙から~」
ところがである!
いざ、蕎麦屋を探すとなると、以外と蕎麦屋は現れない。
以外どころではない。
全く姿を消してしまう。
普段、観光地を車で流していると、
うるさいほどの蕎麦屋の看板に出会う。
これでもか!これでもか!と蕎麦屋の看板が襲ってくる。
蕎麦屋の押し売りかと、ハンドルを叩いてしまう。
蕎麦屋の隣に蕎麦屋があるっちゃどげんこつね!
この街道には、蕎麦屋しかないのか!
ハンドルを叩いたつもりが、クラクションを叩いて、
パア~!
ところがである。
今こそ、蕎麦屋を探す人間になったのである。
一端、蕎麦屋を探すとなると、その気持ちはエスカレートする。
心の中は蕎麦一色単になる。
蕎麦以外の事が考えられなくなる。
これは、蕎麦の他では有り得ない現象だ。
蕎麦特有の現象と言っていいだろう。
私だけではなく、
昨今の日本人の傾向と言って、間違いはないだろう。
言葉に収縮させるなら、
<蕎麦屋に私を連れて行って>
ん?どこかの映画で聞いたようなフレーズだが、これこそ真実だ。
うう・・しかし!
なんで、いざ食べたいとなったら、蕎麦屋は姿を消すのだろう?
特に、旨そうな蕎麦屋は積極的に姿を見せなくなる。
ヒナビタ風情の
民芸調の蕎麦屋に限って、
姿を見せなくなる。
いつも、あれほど、林立していた蕎麦屋軍団はどこに行ったの?
耐えに耐え、我慢に我慢を重ね、
全く現れない蕎麦屋に幻滅し、
しょうがなく、最初に現れた<そば、うどん、ラーメン>
と書いてある看板の店に入る。
うどんの切れ端が混じっているソバを喰らう。
ゲフっと、腹を満たして、街道を前進する。
するとだ!
必ず、すぐに現れるのだ。
イシマル理論では、
かならず! すぐに! 現れるのだ。
実に旨そうな・・理想的な・・蕎麦屋が・・・
岩手そば畑